カンボジア, タイ

開発とは何か、カンボジアにて考える-先進国のバックパッカーは何を思う?

Battambang City
Battambang City

東南アジアレポート 28-開発とは何か、カンボジアにて考える

2007年11月23日 Battambang (Cambodia)

開発とは何か。この旅を通して考えてきた壮大なテーマ。先進国がこぞって途上国と呼ばれる国々を「開発」の名の下に変えていっている。お金を出して援助し、その国の最低限の生活水準を引き上げることはとても良いこと。だけど、たいていの場合、少なくとも僕が知っている限りにおいて、先進国の行う開発は物質的に 豊かな社会、便利な社会を作る方向に向かっているように感じる。先進国の行える、アドバイスのできる唯一の開発手法は、自分たちの歩んできた道。それを教えるということだけだ。それを大きく変えて、違う形で他の国の社会設計を手伝うことは難しい。

たしかに僕らはコンビニで24時間あたたかいおにぎりを買えるし、欲しい電化製品も手に入れることができる。しかし、裏を返せば日本は今たくさんの問題を抱えていることに気付く。環境問題をはじめ、家族の時間を得られない家庭、そして仕事の悩みによる自殺。日常の中に心の痛む出来事があふれかえっている。「効率」を追い求めて「発展」してきた蓄積が、今その許容を超え、音を立ててあふれ出してきているようにさえ感じる。果たして「先進国」日本は幸せなのだろうか。

A market in Battambang
A market in Battambang

少し視点を変える。東南アジアを旅していると、背中とお腹に大きなバックパックを抱えた多くの日本人、白人を目にすることができる。バックパッカーと呼ばれ ることに抵抗があったので、僕は小さなリュックサックを背負い、遠足に来ているかのような格好で歩いていたけれど、紛れもなく僕もそんな旅人の一人だ。では先進国の人々は何のために途上国を旅して歩くのだろうか。多くの人々は文化の違い、物価の違い、あらゆる違いを体験したいがために旅をしているのではないだろうか。僕らは皆違うことをとても心地よく感じるし、全て同じなら改めて見聞する意味もない。

今、「開発」と言ったとき、それは大きなオフィス街や、巨大なビル、マンションを建てることを連想させる。そして、最初は道路の整備から始まる開発も、進行し ていくにつれて今の東京のような大都会を構築する方向へ向いて行くような気がする。東京のような巨大ビル群の街が世界中にできて、どこへ行っても同じよう な四角い建物に出会うようになってしまうのだろうか。世界の皆が伝統的な自分たちの料理をやめてしまって、フライドチキンやマクドナルドを食べるように なったら・・・。その時、バックパッカーと呼ばれる旅人はどこへ向かうのだろうか。もはやどこへ行っても同じ風景の世界で。

しばしば、1日1ドル以下で暮らす人々XX人とかいう指標を目にする。また、明かりをたき火で補っている人々XX人という指標も目にする。果たしてこれら は貧しさの指標なのだろうか。石油を燃やして何のためらいもなく電気を使っている生活が豊かで、自然の中で自然とともに暮らしている人々が貧しいのか。枯れた小枝を燃やしている方がよほど環境に良いだろうし、無駄遣いもきっと最小限にするよう心掛けるのではないか。どちらが良いのか僕の経験からはなんとも言えない。

現在の「開発」は途上国の人々に「便利さ」を提供しようとしているように感じる。だけど、先進国の方も自分たちの便利さをそろそろ削っていく必要があるのでは?と時々思う。「便利さ」は一定量しか世界には存在しなくて、それをうまく配分しなきゃならないんじゃないかな。それは資源が一定量しか世界に存在しないのと比例するように思う。

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