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開発キャリアという旅路の哲学

あなたの「専門」は何か。そう問われた時、一言でまとめられることが一流の証である。そうしばしば語られることがある。そしてそれがある種、専門家としての美学であると信じられている。それは単に、ある分野を極めたからこそ、容易な言語をもって説明できるということなのだろう。

果たして本当にそれが正しいのだろうか。そもそも専門と呼ばれるものをたったの一言で語れるほど、単純なことを誰もやってはいないのではないか。専門とは一言で説明しようとしてもさっぱり理解してもらえないものなのであって、また、そうあるべきである。

しばしば、日本の古きよき時代とやらを生き抜いてきた人たちに、「私はこの会社に精一杯尽くしてきた」そう語られる場面に出くわす。しかし、若者よ、この言葉は我々には当てはまらない。これは昔話の一種であって、今まさに開かれた未来へ向かう私たちにはまったく響かない言葉なのである。ひとつの会社に忠誠を尽くし、そこで骨をうずめる。そんな美学が昔はあった。しかし、現実を見よ。

遠く日本から離れて、100年に一度の経済危機を眺めていた。もう何回聞いたのかわからない言葉がある。「私はこの会社に精一杯尽くしてきた。それなのに・・・」なぜ首を切られるのか。時代が変わったのである。その新しい時代がよいのか悪いのかはわからない。しかし、議論する前に、若者は立ち止まってはならない。周りの声に惑わされず、自分の信念で目指すところへ突き進んだものが時代の波に乗れるのである。

終身雇用は終わった。いや、終えるべきである。たしかに、戦後の高度成長の一役を担ったのがこの終身雇用だった。企業が人材を育て、職員は幹部にまでのし上がる。年功序列の世界だった。しかし、今、若者はこれを期待してはならない。「終身雇用=安定」という間違った方程式に騙されるな。ひとつの会社で色々な部署を経験させてもらえる。このことが含む途方も無いリスクに気づかねばならない。

色々なことができる人材。裏を返せば、満遍なく何もできない人材である。何か突出した技術、専門性、職歴を持たない人材なのである。これは代替可能な人材なのであって、「安定」とは天と地ほどかけ離れた存在に他ならない。非常に大きなリスクである。

こうした「何でも屋さん」をこれまでたくさん作ってきたつけが今に来ている。それにもかかわらず、世論は終身雇用と、この果てしないリスクの闇を維持しようとしている。
若者よ。キャリアの40年は長い。時代も変わるだろう。組織の代替可能な歯車として育っていくのか。それとも、誰にも負けない技術と専門性で戦っていくのか。今、選択の時である。

この哲学は、どんなに安定した職業に今就いているかに左右されない。たとえ、終身雇用が確約された国家公務員であれ、その身分を捨ててまで専門性を確立する価値はある。このことが提案するリスク軽減策は、終身雇用の枠の中に入ろうと努力すること以上に意味のあるものである。つまり、専門性を持っていれば、組織にこだわる必要がない。その組織が嫌なら辞めればいい。もっと高みを目指すのなら、別の組織へ移ればいい。専門性を持って40年のキャリアを旅すればいいではないか。

企業が終身雇用の名の下で、人の人生を縛ってきた。これからは人が企業を選ぶ時代なのである。個々が独自の専門性を携えて、組織を選ぶのだ。人を酷使する組織は生き残れなくなるだろう。そして人は自分でキャリアアップを目指すことが求められるようになる。5時以降働けと言われれば、「嫌だ」と言って、大学院の夜間コースへ通い、専門性を高めればよい。組織はこの選択を否定できなくなる。なぜなら、彼、彼女の専門性を他組織に奪われたくないからだ。人はその組織に違和感を覚えれば辞める選択が容易になる。人が組織を選ぶのである。

組織の生産性、組織力はこれによって低下するだろう。しかし、はたしてどれほどの人々がこれまで、組織のために己を犠牲にしてきたのだろう。今こそ、自分のために働く働き方を選択してもよいのではないか。より人間らしい働き方ができるのではないか。「専門」という小包を携え、より良い組織を探し求める。そんな旅に出ようではないか。

昔話からの脱却。専門を確立していけるキャリアを模索する。人事は人事のプロが。会計は会計のプロが。総務は総務のプロがやる時代が来る。ジェネラリストという「何でも屋さん」は死語となる運命なのである。いや、その時代を築くために、私たち、若者は今選択しなければならないのである。

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