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江戸時代に学ぶ途上国の食糧政策と現金給付

Photograph: Aizukanko
Photograph: Aizukanko

江戸幕府が飢餓の際に被災地へ治安維持軍を置かなかった理由

イラク・シリア難民へWFPがデジタルカードで現金給付“(2016年5月1日付)」で指摘のとおり、現金給付による当該地域の食糧価格の上昇リスクを回避する為に、事前の市場調査とその後の市場価格・需給モニタリングも重要ですね。冲方丁著「天地明察」(角川書店)の中で、会津若松藩主として藩政に、また、四代将軍家綱の輔弼役として幕政に尽力した保科正之公が、飢饉の際に被災地に治安維持のための軍政を置くことは食料不足・食糧価格高騰を加速させ(それが治安悪化に繋がりかねない)として反対し、治安維持軍を置かなかったという内容の記述があり、気になっていました。先進的な人物であり、学ぶところが大きいと思いました(ただし、批判もあるようです)。

 

会津藩政

(1)社倉制度の創設(飢餓対策):豊作年に年貢米に加え備蓄米を調達し、凶作や飢饉時に被災者に貸し出し、利息2割で豊作時に返済(備蓄米は7千俵から5万俵へ増大)。火事被災者、領外からの入民、新田開発農民へも社倉米を支給(既にWFPのP4PやFood For Assetを実践していた?!)。

(2)「負わせ高」の廃止:耕作不可能地まで田畑と見なして年貢を課していた税を廃止し、減収が予測されるも、逆に、農民が藩に隠蔽していた田畑を申告し、結果増収。

(3)90歳以上の高齢者へ扶持米の支給(年金制度のはしり?!、当時受給資格対象者151人)

(4)赤ん坊の間引きの禁止

(5)相場米買上制開始、升と秤の統一

 

幕政

(1)玉川上水の開削:武州羽村/多摩川から約43kmの水路を造って四谷大木戸「水番所」から地下を通して市中へ給水、江戸城下の生活用水確保、また多摩地方の水田稲作ための農業用水確保

(2)大火における迅速な被災者救済:1657年1月の江戸の大半(6割)を襲う明暦の大火/振袖火事/丸山火事により、当時の人口80万人 (町方30万人) 中、10万人以上の焼死者が出た事件。幕府天領からの年貢米100万俵以上を保管する隅田川沿いの米倉に火がついた際には「米の持ち出し自由」として避難民たちを火消しに転じさせ、また持ち出された蔵米が救助米となるという一石二鳥の策を打ち、米倉は全焼を免れた。難民救済のために、各地で炊き出し、全焼被災民へ再建費として総額16万両を供与。参勤していた諸藩を国許に帰らせ、江戸出府を延期し、江戸の人口を一時的に減らし、需給の調整をはかることで物資高騰を抑制した。また、江戸市民の救済を優先するため焼け落ちた江戸城の天守閣を再建せず。

(3)防災対策・都市復興:退路確保のため主要道路の道幅拡幅(6間(10.9m)から9間(18.2m)へ)、火除け空き地として上野広小路を設置、芝・浅草両新堀の開削、神田川の拡張、避難路確保のため隅田川に橋/両国橋を架設。

 

ただし、バラマキ政策だと言う批判もあるようです。社倉の制度は飢饉対策として良い結果ももたらすも、一方で年利2割の金利収入を財源化しようとする狙いもあり、後に強制貸付と結びつけ、庶民を苦しめる弊害もあったとか。後に、藩財政逼迫、年貢増徴による一揆も起きたとの由。

後の天明の大飢饉の際、藩札の大量発行等により深刻な財政危機にあった会津藩は、社倉米でも足りなかった。5代目藩主松平容頌に仕えた家老の田中玄宰は、藩経済回復のために、殖産興業の奨励をし、醸造、会津漆器の改良、養蚕業、鯉の養殖の育成に取り組んだ。貴重なタンパク源である鯉養殖技術を研究・確立・普及させ、飢餓対策。米沢藩などの他藩へも普及。

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