アジア・大洋州

思い出深いNGO活動

過去の忘れられない歴史や思い出を振り返ってみると、2019年は私にとって二つの大きな節目の年にあたることに気が付く。

一つはインドシナ難民発生を契機に1979年に本格化した、日本におけるNGO(非政府組織)運動の急速な高まりである。ベトナム戦争終結によって命からがら船で逃げ出した旧政権側のボートピープルなど、その影響は隣のカンボジアやラオスに飛び火し、タイの国境の町サケオ、アランヤプラテートやノンカイなどは生死ぎりぎりで逃れてきた難民たちであふれた。仮設の難民キャンプはほとんどすべてのものが不足し、極度の栄養失調や伝染病などが蔓延し、死者の数が急増した。

そうした八方ふさがりの状況の中で、自分の命の危険をものともせず、現地に飛び込み、ボランティアとして難民キャンプで働く日本人の若者の活躍がクローズアップされた。それまでなすすべもなく、見て同情しているだけの日本人だったが、それ以後、若者たちの心に火がついたように難民キャンプに飛び込むボランティアの数が急速に増えた。それを支援するNGOの数も急増した。

あれから40年、当時活躍したNGOの多くは、日本のNGO運動の中核となり現在も活動を続け、当時まだ20代だった仲間の多くはNGOや国際組織のリーダーとして今も活躍している。

もう一つは1999年の話。20年前になる。私がまだ国連職員でバングラデシュに駐在していた時、日本のマスコミ関係者などを招待して、北部のタンガエリで活躍する「SSS」という、現地人で組織された優秀なNGOの活動を視察した時のことだ。

ボーテルと呼ばれる大規模な赤線地帯(遊郭街)の一つに案内された。SSSは、そこで生まれた子供たちに教育支援や子供の人権保護などの支援活動をしていた。父親が誰だか知らない子供たちは、1軒当たり3畳間ほどの、不衛生で板の仕切りだけで隣と連なった母親の仕事場で生活を共にし、10歳を過ぎるあたりから客を取らされる。そう聞いてわれわれは驚き、あぜんとしてしまった。SSSはそうした子供たちを、母親から隔離して寮に住まわせ、学校に通わせている。しかし、資金が限られているため、面倒を見ることができる子供の数はごくわずかだった。

子供たちが住む寮に行き、夕食を共にした。その時の子供たちの輝く瞳と、くったくのない笑顔がわれわれの目に焼きつき、同行していた新聞記者の奈賀悟さんは、その後、記者を辞め、執筆活動の傍ら、この子供たちの寮生活や学費の支援などを20年過ぎた現在も継続している。

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