エチオピア

銃撃戦に巻き込まれて

Photograph: Yoshihiro Saito

難民キャンプにて日々の生活を送っていると日本にいると想像もできないできことに出会うことが少なくはありません。私の駐在していた2015~2016年にかけて多くの衝撃的な出来事がありましたが、その中でも非日常的な出来事は銃撃戦に巻き込まれたことでした。

当時、細々と綴っていた個人ブログにその時感じたことを書き溜めていたものがあったので、今回はそちらを敢えて編集を加えず下記の通り引用させて頂きます。

この出来事のこと、これからも死ぬまで忘れずに生きていきたいと思います。2018年も本連載をお読み頂きありがとうございました。2019年も何卒宜しくお願い致します。

生死を分かつ経験

エチオピア・ガンベラ州の難民キャンプにて南スーダンから逃げてきた南スーダン難民の支援活動を続けています、Africa Samuraiと言います。

2014年9月に初めてエチオピア・ガンベラ州に来て以来、事業地の治安は、比較的安定していたのですが、一昨日初めて、「生死を分かつ経験」をしたので、そのことについて少し書きたいと思います。

事件の発端となったのは、2016年4月21日の木曜日でした。ガンベラ州には、5万人規模の難民が住むキャンプが4つあります。

その中の一つのキャンプであり、我々が昨年まで活動を行っていたJewi 難民キャンプで、ある国際NGOのバスを運転していたエチオピア人のアバシャ(肌の色が比較的黒くないエチオピア人)が難民の子供2人と衝突事故を起こしてしまいました。

この事故に対して、難民側の民族(ヌエル族)が激昂し、Jewi 難民キャンプ内で活動していた他のNGO、 国連関係者に対して、リベンジを行ったことから事件が波及的にJewi 難民キャンプ内に広がり、某国連団体の下請けをしていたContractorが複数人殺傷されました。

仲間の民族を殺されてしまった、ヌエル族は、仲間の為にリベンジを行った形になります。

そして、エチオピア土着の民族(アバシャ)がこのリベンジに対して、なぜ難民に対して、土地を提供し支援している側のエチオピア人が復讐されなければいけないのか?といった不満と怒りが増大し、「アバシャ」 VS 「ヌエル族」といった戦闘が瞬く間にガンベラの町全体で広がってしまいました。

ここでやっかいで不可解なのが、我々難民支援活動を行っている、NGO、国連グループが、難民支援をしているということから、ヌエル族の味方と勝手にみなされ、当該紛争は、「アバシャ」VS「ヌエル族 + 国際NGO、国連グループ」と言った形の構図になり、我々支援団体も巻き込まれたことでした。当日の様子を表したニュースがこちらです。

その後、4月23日、WFPオフィス、MSF(国境なき師団)オフィスや複数の国際NGOのオフィスがアバシャからの投石等の襲撃にあう。という形で事件が激化したのを見て、今回は、国際NGOの職員として、ターゲットになっているということで、首都のアディスアベバに緊急退避を決め、取れ得る最速の日にちのフライトということで、翌日4月24日午後のガンベラ→アディスアベバのフライトを予約し、24日までガンベラで待機することにしました。

4月23日の夕方の時点で町中で銃声が聞こえはじめ、今回はターゲットになっていることもあり、やばいかもしれない、と不安を抱えながら、23日の夜はなんとか過ごしました。

4月24日、朝から町では、アバシャのデモ隊が町を闊歩しており、我々NGO職員は外には一歩も出ない様にひっそりとオフィスに隠れておりましたが、10時頃、遠くの方で複数の銃声が聞こえました。まだ遠くでかすかな音だったこともあり、あまり気にしていなかったのですが、その数十分後に私のオフィスのすぐ横の道で「バン!バン!」とものすごい大きな音が鳴り響きました。自分の感覚では座っていたところから壁を隔てて3メートルぐらい。オフィスのガラスが銃弾の衝撃で揺れていました。

とっさに、自分の部屋に逃げ、カギを閉め、物音を消し、机の下に隠れました。

前日に我々のオフィスの目の前のWFPのオフィスが襲撃され、ドアが壊され、デモ隊に襲撃されていたこともあり、我々のオフィスにも十二分にデモ隊が入ってくる可能性がありました。また、オフィスの横の道ということもあり、銃撃戦となった場合、流れ弾に当たる可能性が高かったこともあり、手と足の震えが止まりませんでした。

これは「死ぬかも」と本気で思いました。「どうせいつか人間死ぬから」と言う人がいますが、28年間の人生でここまでリアルに「死」を意識したことはありませんでした。

銃声が複数回鳴り響いている間、震えながら頭の中に、今までの短い人生のことが走馬灯のように思い出されました。

「自分の人生を本気で生きてこられたか」

「後悔は無かったか」

「自分は誠実に生きられたのか」

また、いままで傷つけてしまった人々の顔、記憶も一気に浮かんできました。

そして、銃撃戦に対して何もできない、虚無感、過去への後悔、やり残したこと、周りの人へ温かく接することができなかった記憶、素直になれなかったこと、親孝行等ろくにできなかったことなどなど、色々なものが死への恐怖とともに、頭の中をぐるぐると駆け巡りました。

あぁ、これじゃあまだ死ねない。ガタガタ手足が震えながら、必死で生きたいと思いました。

幸いなことに銃声は数分で止み、その後部屋から出て、スタッフの安否を確認。

死傷者が出ていないことに安堵し、オフィスで全身の力が一気に抜けてしまい、暫くの間、耳の中であの暴力的な銃声が何度もこだまするのと同時に、死を恐れ、震えていたときに感じた「感覚」が戻ってきました。

「人は必ず死ぬ」

当たり前のことですが、事故であれ、紛争であれ、老衰であれ、なんであれ、必ずその時は訪れる。

そして、死の直前に自分の人生が自分のHistoryとして、一気に思い出される。

「やり残したことはあったか、他者への接し方はどうだったか」

「何かの選択を躊躇して後悔はしていないか」「誠実に相手に接しられたか」

私は正直、様々な「後悔」が思い出されました。できていなかったことがこんなにも多かったのかと自分でも驚くほどでした。

その後、アディスアベバに無事に退避しましたが、心にぽっかりと穴があいたままというか、2日程、紛争へのショックと、自分の後悔がこんなに多かったことへの驚きで茫然としていました。

しかし、いつまでもこうはしていられない。

この事件は自分にとって、今後の人生を後悔させないため、誰かが与えてくれた特別な「きっかけ」だと前向きに自分の中で消化して、乗り越えないといけない。

「他人と過去は、変えられないが、自分と未来は変え放題」と昔本で読んだことがあります。

この言葉が改めて自分の胸にストンと落とし込まれました。

この一連の事件で被害を受けた、友人の団体、NGO、国連機関、難民の皆さまへのお悔やみを胸に、また今日から一日ずつ、未来に訪れる人生が終わる日に「後悔しないよう」に。

いままで傷つけてしまった方々、不誠実に接してしまった方々すみませんでした。

こうやって生きていられることに感謝して、今日からまた精いっぱい生きたいと思いますので、これからもどうぞよろしくお願い致します。

2016年4月26日
Africa Samurai

連載『サッカー選手の夢破れ、国際協力の世界へ』

高校時代に自身が経験した貧困体験、サッカー選手になれなかった悔しさを元に、国際協力の専門家になることを夢見て一念発起。JICAでのインターン、総合商社、国際NGO、英国大学院を経て国際機関で勤務する筆者の経験談をシリーズで語っていきます。

  1. 開発の仕事を志すようになったきっかけ
  2. 開発の仕事に就くまでの道のり(JICAインターン→総合商社→NGO)
  3. 難民キャンプでの2年間の経験について (1)
  4. 難民キャンプでの2年間の経験について (2)
  5. 難民キャンプでの2年間の経験について (3)
  6. 現場NGOでの仕事→IDSでの修士号取得について
  7. UNDPでの仕事について
  8. 民間、NGO、国連という選択肢の比較について

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